2026年10月 神無月(かんなづき)
お米の歴史
おいしい新米の季節となりました。ところで私たちの主食「お米」はどこから来たのでしょうか。
稲の原産地はインド東北部のアッサム地方から中国南西部の雲南地方にかけての、東西に細長い亜熱帯の山地なのだそうです。
稲は細長いインディカ種(タイ米など)と、丸くて粘り気のあるジャポニカ種に分かれ、ジャポニカ種は揚子江の上流から下流に広まっていきました。日本には野生の稲がありませんので、交易によって持ち込まれたと考えられています。そのルートは朝鮮半島経由と、揚子江下流の江南から台湾を経て南西諸島→沖縄→九州南端に到達したという経由が考えられます。
一般的には弥生時代に到達したと思われがちですが、近年の縄文時代の遺跡の研究などから、縄文時代後期には丸木舟を用いて南西諸島や沖縄、九州南端を行き来する漁労の集団があったことが明らかにされ、縄文後期にはすでに稲が到来していたようです。
稲作は弥生時代になって急速に普及しました。中国から朝鮮半島に伝えられた稲作の技術は、朝鮮半島の開けた平野に大規模な水田の開発を起こしました。この地域から朝鮮半島統一の動きが起こり、紀元前四世紀までには農耕民の集落をまとめる小国家ができあがり、殷朝の王族、箕子が建てた箕子朝鮮という国家がありました。
紀元前190年頃、中国の衛満という豪族が軍勢を率いてこの箕子朝鮮を滅ぼし、衛子朝鮮として朝鮮北部から中部を統一しました。この動乱で故郷を追われた農耕民は南下して朝鮮半島南部にあった韓という国に逃げたのですが、韓の国家は彼らを受け入れてくれませんでした。そこで彼らは海を渡り大挙して日本列島に移住してきました。
まず九州に上陸した集団は、原野を切り開いて水田を作り、米を量産し始めます。こうして弥生時代に全国規模で水田耕作が普及していきました。
広い土地と水利の便を必要とする水田耕作は、やがてその地域を治める小国を生み、米を多くもつ者が尊ばれる社会を作り出します。
こうして三世紀に大和朝廷(ヤマト王権)が誕生しました。
大量の米を蓄え日本の指導者にのし上がった大和朝廷の本拠地は、四世紀には奈良盆地の纏向(奈良県桜井市)にありましたが、五世紀初めに仁徳天皇は「奈良盆地の開発には限界がある」として、王宮を河内(大阪府)に移し、大規模な大阪平野の開発を行いました。
米の増産が可能になったこの五世紀に、ご飯を主食にして、副食であるおかずを添えるという日本食の基本型がつくられました。「おかず」とはいくつかの副食を揃えたありさまを表す「数」をもとに作られた言葉です。世界的にみても主食と副食とを分ける考えをもつ民族は少ないのだそうです。
奈良時代になると、中央の貴族や寺社が農地を開発して新たな村落を作り、そこを荘園として囲い込むようになります。平安時代を経て中世の始まりとともに村落の支配層である武士という特権階級が生まれ、鎌倉→南北朝→室町→戦国→江戸時代へと進みます。

江戸時代、耕地の生産高や知行の大きさは「石高」で表わされていましたが、この「一石」という単位は10斗、180リットル、重さでは150kgにあたり、成人男子が一年間に消費する米の量が基準となっています。つまり百万石だと百万人養えることになります。現代人のお米の消費量は一人平均およそ年間50kgだそうですから、江戸時代の人々は今の三倍お米を食べていたのですね。
時代は進み、太平洋戦争最中の1942年(昭和17年)、ときの東條内閣は、戦時下における食料供給の安定を目的に「食糧管理法」という法律を制定しました。食糧の生産・流通・消費にわたって政府が介入して管理するというもので、「米」の価格は政府が決定することになりました。
国民が平等に米を入手できることを目的にした制度でしたが、1950年代には米不足は解消し、さらに1970年頃には政府米の収支が逆ザヤとなる問題が発生しました。
食糧管理法の制度下では、米は合法の「政府米」と非合法の「自由米」(いわゆるヤミ米)しかありませんでしたが、1969年に流通経路の合理化や政府米の赤字解消を目的として「自主流通米」という米が登場します。政府の手を通さず、農家が農協を通じて直接卸業者に流通させる米です。最も多い時期には全流通の7割を占めるまでになりました。
■物資から商品へ■
戦時下の1944年(昭和19年)、病気に強い「農林22号」と、収量が多く食味に優れた「農林1号」の交配が行われ、両方の特徴を持つ新品種の開発が始まりました。その一部が福井県の農業試験場に引き継がれ栽培試験が行われますが、病気に弱く稲が倒れやすいのが欠点でした。しかし、1965年(昭和40年)、新潟県が品質や食味を重視した“おいしいお米づくり”の奨励品種として採用します。この農林100号が新品種「コシヒカリ」として品種登録されました。
お米の名前には「コシヒカリ」のようにカタカナや、「あきたこまち」のようにひらがなのものがありますが、これは品種をどこで開発したかによって書き方を変えていたからです。国または国が指定した試験場で開発した品種はカタカナの6文字以内、県の農業試験場で独自に開発した品種はひらがなという決まりがありました。
食生活の変化で米離れが加速すると、お米は戦中戦後の「物資」から「商品」に変化します。商品のネーミングがとても重要な時代に規制があるのはおかしいと、自由に名前を付けられるようになりました。その第一号が国の指定試験場の宮城県古川試験場で開発され、1991年(平成3年)に誕生した「ひとめぼれ」です。こうして形骸化していた食糧管理法は1994年(平成6年)に廃止されました。
「商品」となったお米。品質やおいしさを求める消費者ニーズに応え、全国の生産地はブランド米の生産に力を入れるようになります。開発競争も激化し、おいしさはもとより、猛暑に強い品種や豪雨でも倒れにくい稲の開発、特定の産地に適した品種は産地銘柄米として「新潟県魚沼産コシヒカリ」や「佐賀県産さがびより」「熊本県北産森のくまさん」などのように商品名に産地が特定されています。
新米が出始めると前年産のお米は「古米」と呼ばれるようになりますが、古米だからまずいというわけではありません。新米は水分が多くもちっとした粘り気で手につくことがあるのに対し、古米は水分が抜けパラパラとしています。お寿司屋さんは好んで古米を使用します。他にもチャーハン、ピラフ、リゾット、カレーなど、ご飯の粒をしっかり味わいたい料理では古米が選ばれます。
お米の品種は約1000品種(令和5年)が登録されていますが、実際に作付けされているのは約300品種ほどで、上位20品種が全体の約80%を占めています。それぞれに個性あふれるブランド名がつけられているので、お気に入りのブランド米を見つけるのも一苦労ですね。
